昭和54年9月22日 朝の御理解
御理解第99節 「無学で人が助けられぬと云う事はない学問があっても真が無ければ人が助からぬ学者が身を食ふという事がある学問があっても難儀をして居る者がある此方は無学でも皆おかげを受けて居る」 どんな学問があってもどんな勉強いたしておりましても、その信心と言う神様の前には無条件と言うのでなからんとおかげは受けられんのです。自分は財産があるから自分は学があるからと言うようなものが前に立っておったんでは神様の本当のお心を分かる事も出来ませんし、言うなら御神徳も受ける事が出来ません。 神様の前ではどこまでも障子一重がままならぬ人の身でございますと言う頂き方。障子一重がままならぬ人の身。神様のおかげを頂かなければどうにも出来ない私。どんなに技術がすぐれておってもどんなに勉強が積んでおりましてもね。それが生きてくるおかげを頂く為に全く我無力である。そう言う意味で例えば私共のように無学な者はそう言う何と言うでしょうかね、出来ない。何も出来ないと言う事が早く分かるような気が致します。
かえって無学の人の方が何か神様の心にすうっと入っていけるような気がいたします。少しばかりの知識とか少しばかりの常識と言うものが信心の前には、もう本当言うたら何にもなりません。神様の前にはね、只私共が信心生活させて頂く上にやはり常識的でもなからなければいけないし、勉強は出来るだけさしてもらわなきゃいけません。何か技術をもってする事の御用に当たる人はいよいよその技術も研かれていかなければなりませんのですけれども。だから幸福になると言う事ぢゃないのです。
私共が信心させて頂くと言うのは神様の願いであるところの、どうぞ学問をしてそのおかげを受けてくれよとも、技術を研いて幸せになってくれよともおっしゃってない。どうぞ信心しておかげを受けてくれよである。
ですから神様の前にはそう言うおかげを受ける、私共が幸福になる幸福にならないと言う事はいうならば神様の前には無条件ね。いわゆる障子一重がままならぬ人の身であると言う我無力の自覚に立ってそして神様へ向かう。お商売ならお商売が大変上手な人があって自分はお商売に自信があると言う間は本当のおかげになりません。 神様のおかげを頂かなければ、これ小さい物一つでも商う事が出来ないと徹したところから一切が神様のおかげであなたのおかげでと言う事になってくるのです。 そう言う事をここでは教えておられると思うですね。だから一応学問があるとか、いろんな常識が豊かであるとか言うような事はです。言うなら私共の観念の中から捨ててしまうと言う事が大事。それを我情を捨てる、自分の思いを捨てる。そしてそこから神様のおかげを受けていくと言うね。
ですからそう言う状態になって、技術がすぐれておるとか学問が出来ておると言えばもういよいよ鬼に金棒と言う事になるのです。その常識がまたはその学問がかえって、おかげの邪魔になると言う事を学が身を食うと言う事があるとおっしゃっておられるですね。技術が身を食うね。言うならその人の才覚がかえって幸せの邪魔になると言う事になりますでしょうが。
だからやはり此方の道は喜び一つで開けた道であるのですから、喜びの強い人には勝ちません。同時にまた馬鹿と阿呆で道を開けともおっしゃる。そう言う、言うならば心の状態を頂いていくと言う事の中にね。最近言われる十字架をねプラスと言う字にしていかないけんと言う御理解をね。 私共の観念が言うならば、そのままおかげにつながらない。観念を捨てる、言うなら稽古とかだから言うていいのですね。
いつも申しますようにね。この食べ物はこの病気にはいけない。これは観念なんです。知らん人なら何にも分からん盲蛇におじず、ですけれどもね。それを少しばかり勉強して栄養学なら栄養学と言うものが少し分かっておると。この食べ物はこの病気にはいけない、こんな時には食べちゃいけない、飲んぢゃいかんと言うふうになりますけれどもね。
教祖様はそうはおっしゃてない、もう有り難く頂く心あらば障る事はないとおっしゃておられるね。観念が邪魔をするわけです。あんなもの食べたけん胃が痛むね。あれを食べたけんこうだと言う事になるのです。その頂き方そのものが言うなら、だから信心有り難く頂く心ね。そこにはもう観念がない。なら私共が例えばなら糖尿病とか腎臓病とか病気を持病のようにして持っておるのですけれどもね。それにはこう言う食べ物がいけん、こう言う食べ物が良いとは思わない。それはもう観念を捨ててしまっておる。 そして神様が与えて下さるものを頂こうとこうね。そう言う生き方これは食べ物だけの事ぢゃありません。一切がそう言う心の状態になるところから○とそのまま神様の働きを受ける事がでけ、神様のおかげを○とそのまま受ける事が出来るんです。観念がおかげの邪魔をする。少しばかりの知識常識がね。おかげを疎外すると言う事になる。だから私共が神様のおかげでと言う事をまず先に立ててからのもんぢゃでけんと言う事なんです。
今日、私御神前で漢字でZ『七十七』と言う事を頂いた。今日の御理解は九十九でしょ。何かつながりがあるだろうなあとこう思ってね。そしてその事を神様にまたお願いさして頂きよりましたら、このZ『芸』ね。芸術家の芸ですね。草かんむりに云うと言う字が書いてある。物を云うの言うでしょ。草かんむりに物を云う。云うと言う字ですね。書いて見てごらんなさい。芸と言う字になるでしょうがねを頂いたんです。
九十九と言えば苦に苦が重なると言うね。もう本当に苦に苦が重なる。念願が成就する。言うならばこれにね、もう一つ添えますと百になる。百と言うのが願いの成就とでしょうか。もう一押しもう一押し足せば百になるんだけれども、そのもう一つのところが分からんでいつまでも苦に苦が重なるような事になっておるとね。
私は七十七と言うのはね。十の字を書いてちょっとこう曲げちゃる。言うならプラスになっていない。こうやって書きよるけど一寸最後の所が曲がってしまっとる。おかげ頂いていきよるごたるけども、どこか辺からかおかげの頂けん方にちょっと曲がってしまう。 これが七十七である。それで私は思うた。どうして七十七を二つ下さったやろかと思ってね、考えて見た。そし成程七七、四十九だなと思うた。これではいつまでたっても四十九です。
四十九(始終苦)とはいつも苦労と言う事になるんです。そこでです。私共の後ろにはいつも苦労が伴のうておる。先月から頂くように苦労は一生ある、一生が修行だと。けれどもそれがもっとましな苦労であり、心配でなからなければならないと言う事とは意味が違うんです。私が言っておるのは、いつまでもお金が足りんならお金が足りん。いつまでも家庭の人間関係なら人間関係が円満にいかない。いつも同じ難儀に堂々回りをしておると言う事なんです。
七十七と言うのはまた九十九もそうだと思うです。だからもう一つもう一つ何かが分かり、そこのところを突破さして頂いたら百にもなろうけれども。折角言うなら観念を言うならば捨てて、そして神様の御神愛の中におかげをこうむっておる事の事実を分からしてもろうて。観念を捨ててまいりますと今まで十字架と思うておったその難儀苦労、十字架を担うた生き方から、その事がプラスになる生き方が出来るんだとね。
十の字を下の方を曲げたら七の字になる。しかも七が二つ重ねて頂いた。それで私は七七、四十九、成程七七、四十九だなと。いつも苦労いつも同じような所でぐるぐると回っておると言う苦労なんです。もういつも家庭が円満でない。いつもお金に不自由しござるね。いつも何か同じような事で言うなら堂々回りをしておるとするならば、ここまではおかげを受けておるのであるから九十九まではおかげを受けておるのであるから、もう一つ何か分からなきゃいけないね。
七七、四十九、言うならプラスがプラスにならず一寸しまいが曲がっておるから七の字になっておるのであるから、始終苦労になっているのであるからね。もう一つ何かをそこに神様が何かを分かってくれよと言うてござる時だと思わにゃいかん。 何を分からしてもらうかね。私共そこを信心させて頂く者は追及していかなきゃならんのです。どうしてこんな事でいつも難儀が続くだろうかと、まあいろいろあるでしょうね。
お金が足りない人は一言二言ぢゃありますまいけどもね。お金をお粗末に使う。持たせれば持たせるでもうそれこそ湯水のように使う。そしてないと言うたら苦労をする。お金の言うならば価値を価値ちたらしめきれない。そこでお金が嘆いておる。だからまた自分もお金に嘆かなければならないと。こりゃその事だけぢゃまあいろいろありましょうや。
原因は、家はどうしてこんなに家庭の中が真っ暗だろうか。どうしてこんなに家庭の中が折り合いが悪いのだろうかとね。兎に角、人の足元ばかりを見ておる。自分と言う者を見らんで、もう嫁子がどうの、息子がどうのと言うならば人がどうのと言うて、人の足元ばかり見ておる。だから心でそこにいつも人を責めておる。成程人を責めたんではおかげにならん。
どうして自分はこんなに健康に恵まれないのだろうか。成程健康が阻害されるような素は自分が作っておる。私はここで言う五つの願い。まず何と言うても体の丈夫を願わなきゃいけないね。その為には私はこの合楽で五つの願いと言うのが打ち出されて、もう何年になりますでしょうか。 以来私は以前は十二時までも一時までも起きとりますと、お夜食を頂きよった。だからもう以来お夜食を頂かない事に決めた。わがよかごとで食べたいから食べると言ったような、言うなら大酒大食しておってから、そして身体が弱い、そりゃちょっと余りに虫がよすぎるわけね。
自分でそう言う修行もさしてもらえ、さして頂いて体の丈夫を願わなきゃいけん。お金のお繰り合わせを願うならばね。金輪際お金を無駄なような事では、それこそ使いません。もう活かした金しか使いませんと言ったようなものがなからなければね。家庭の言うなら円満を願っとるならばね。私はもう大体昔から人を責めると言う事はしませんでした。
けれどもやっぱり考えて見ると家内がいつも私から責められておる。まあ言いよいわけですね。お前がこうぢゃけんでとまあ怒る時に、あれは責めよる時です。だからいくら責めよいけんでと言うて相手が黙って受けてくれるからと言うて、こう責めたんぢゃいけんから。この五つの願いが出されてからこっち、もう私は家内も一遍も責めた事はないです。この事がもう三年か四年かなるでしょうか。 以来どんな些細な事でもお前がこんな事してからと言う事を言うた事はないです。人を責めておって円満を願うちはおかしいです。人を責めるなら自分自身をふり返る。中味をのぞいて見る。言うならば生き方を言うなら自分の身を責めていかなきゃいけんのですね。 まあ今日の御理解のいつも九十九である。いつも七七、四十九であると言う人はそう言う見方、考え方をしなければいけないと言う事ですね。口では責めんでも心で責めておる。 だから自分と言うものを見極めて行く時に人どん責められるだんぢゃない自分を発見するんです。そしてそれを改めて行ってごらんなさい。もう七七、四十九が七の字が直ぐにプラスになるでしょう。 本当に九十九と思うておったのに、その事が一つ神様の御神意に、ここ一つ改めてくれと言っておられる声を聞くような思いで、自分を見て行くと言う事によってです。その九十九が百になるでしょう。 はあ芸と言う字を頂いた。草かんむりに云うと言う事を頂いたのは、もういつも自然が物を言うておると私は頂いたんです今日はね。 草かんむりと言う事は自然と言う事。自然が言う、ね自然。自分のよく言います子供は親の鏡だと言う事を申しますが、これは自然がものを言うておるわけです。だから自然がものを言いかけてくれる事を聞こえる耳を頂かなければいけませんね。
自然がある場合にはささやきかけるように、ある場合にはそれこそ耳もつんざけんばかりに大きな声で私共に注意を下さってあるのだけれども、それを聞こうとはせずに只難儀の面だけを見る。困ったことだけを見る、そして人を責めておる。そして物やらお金やらを疎かにしておると言ったような事ではおかげにならん。 私が皆さんに今日は九十九と九十九節と言うね。ここは勿論私共が勉強その学が身を食う。少しばかりの常識が言うならかえっておかげの邪魔になると言ったような事が書いてある、ここには教えてあると思うんですけれども、それにはまず私共が観念の言うならば、左右される事なくね、一切を神様のおかげとして頂かれる私になろうとね、して見るとなら貧乏も病気も家庭不和もです。 神様がね、このような苦労を与えながら修行させながら、私に本当な事を分からせようとしておられると言う自然が物言うて下さる事を聞き取る気になり、それを身の上に、心の上に頂いて改まった生き方を身につけて行くと言うおかげね。 そこにです。プラスがプラスになって行くおかげになろうけれども、確かにプラスと言う字を書いたごたるけども、下の方を一寸曲がってしもうとる、おかげが曲がってしもとる、七の字になっとる。そしていつも七七、四十九で堂々回りと言ったような事のないような信心を身につけて行きたい。 絶えず神様は私共にね。ここをこうあってくれよ。ここをこう改めよ。ここはね悔やむどこではない御礼を申し上げなければならないところぞと言うふうにです。言葉をもってはなさらなくてもね。 自然が鏡である。自然の働きそのものをです。私共が見ながら信心を進めていかなければならない。そう言う信心をさせて頂くうちにです。観念がなくなってくるです。
成程神様のおかげを頂かなければ出来る事ではないと言うね。皆さん言うなら経済の上にも人間関係の上にも健康の上にもです。そう言う言うならば、難儀の内容と言うものをです。分からしてもらう時に、それこそ開けて見れば愛と言う事になるのです。
知らん事とは言いながら本当に人どん責めておった自分が相すまんと、お詫びの姿勢が生まれてくるですね。物を押し頂く。言うならば姿勢が生まれてくるです。そこから受けて行くおかげを私はお徳を受けながら、おかげを受けて行く姿勢であり生き方だと言うふうに思います。
今日は徳にこの九十九と言う事と、私がお知らせに頂いた七十七が十と言う字を下の方を曲げたのが七と言う字であるね。七の字にならんように十字架をプラスにせねばならんけれどもね。それをいよいよプラスにする事の為にね。どこ辺から曲がっておる自分に気付かせて頂いて、正して行かなければならない。言うならば改めていかなければならんと思います。「どうぞ」